執筆 越智道雄

ラスト・サムライ
(C)2003 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
12月6日(土)丸の内ピカデリー1ほか全国松竹・東急系にて日米同時公開
ラスト・サムライ
Last Samurai
監督:エドワード・ズウィック
出演:トム・クルーズ、渡辺謙、真田広之

明治初頭の日本。政府軍に西洋式の戦術を教えるために来日した南北戦争の英雄オールグレンは、政府軍に反旗を翻した勝元率いる侍たちと出会う。ただ勇敢なだけではなく、死をも超えるゆるぎない価値観に感銘を受けたオールグレンはやがて勝元と固い絆で結ばれてゆく。しかし、二人の友情もつかのま、「サムライ魂」を貫くためには、滅んでゆく運命を選ぶしかない侍たちの、最後の戦いが始まった‥‥。


北軍騎兵将校の謎

 武士道という時代錯誤な主題を描いたこの映画は、しかしながら、極めて時代の空気を敏感に反映している。

 まず、アメリカでインディアン虐殺の汚辱にまみれ、騎士道の名誉を喪失した北軍騎兵将校は、なぜ日本で反乱士族とともに明治新政府軍に突撃することで名誉を回復したのか? なぜ、日本が介在しなければならなかったのか?

ラスト・サムライ
(C)2003 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved

 表面的には、インディアンと日本人という同根の有色人種、しかもどちらも自国政府に反乱を起こした人々、その片方を虐殺した贖罪を片方に味方することで果たした形になっている。

 この映画の隠された意味は、こうである。騎兵将校は「第二のマッカーサー」なのだ。「第一のマッカーサー」は、日本占領と民主化の過程で武士道を破壊した。その結果、日本は国防は日米安保条約におんぶしたまま、産業開発に突き進んだ。しかしアメリカは、北朝鮮、中国、ソ連という共産主義諸国3国に至近距離から囲繞(いじょう)された日本が自力で国防を達成することを要請し続けてきた。マッカーサーの更迭は、表面的には朝鮮戦争において彼が中国への核爆撃、台湾の国府軍による大陸反攻という両面作戦を独断で実行しようとしてトルーマン大統領の逆鱗に触れた結果だった。しかし、大統領や政権側の真意は、マッカーサーが日本の武士道を徹底的に破壊、日本国軍の再建を不能に陥れてしまったことに対する懲罰にあったと見られる。

 この「不能」を嘆く日本側の声は、少数の右派勢力の間でしか起こらず、その最大の叡知を担った三島由紀夫の自衛隊を面前にしての割腹自殺は、大半の日本人の間では「狂気」としか受け取られなかった。

 しかし国境を他民族と接することがなかった日本人は、どちらかというと優柔不断で、戦闘意欲をかきたてるには、他民族以上に「狂気」をかきたてないと動けない傾向がある。その狂気を精緻化したのが武士道だったのである。

 例えば、スポーツは十分な栄養、睡眠を基礎とする不断の練習が不可欠だが、日本ではそれだけでは足りず、常に精神主義が唱導され、栄養・睡眠を切り詰めての無謀な練習が常識となる異様さがある。

 さて、時代は移り、ソ連は崩壊、中国一国では第三次世界大戦を起こせる状況ではなくなった。アメリカは、カスピ海沿岸、中央アジアなど、ソ連・中国が健在なら入りようがなかった「敵地」に米軍を駐屯させ、さらにはイラクをはじめとする中東の支配をめざす「一国主義」をむき出してきた。

 アメリカへの対抗手段は、もはや姿なき軍隊、つまりテロリズムしかなくなってきた。これこそが「第三次世界大戦」なのだ。

ラスト・サムライ
(C)2003 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved

 この映画の北軍騎兵将校は、いったん自らの先任者によって破壊された武士道を日本人に喚起すべく派遣された。この映画のサムライたちは、最初、濃霧の中から亡霊の大集団のように現れ、明治新政府の軍隊に襲いかかる。この軍隊は魂の抜けた自衛隊の象徴である。幽鬼のごとき、甲冑に身を固めた騎馬武者らは、破壊された武士道の亡霊だ。それが「自衛隊員」をほしいままに殺戮する。

 サムライたちが生活する吉野は、古来、桜の名所だが、桜は刀とともに武士道の両面価値(剛と柔)を代表してきた。騎馬武者らが政府軍のギャトリング・ガン(当時の超近代兵器)に向かって玉砕的突撃を敢行した後、サムライの総大将が自分の馬側を駆けた北軍騎兵将校の介錯によって最期を遂げる瞬間、かすむ目に満開の桜花が入ると、彼は「完璧だ」と呟いて果てるのは、まさにそのためである。

 つまり、この映画が言おうとしているのは、こういうことだ。「テロ戦争」は事実上の第三次世界大戦であり、しかも敵は姿なき軍隊である以上、現在、60数カ国に駐屯させている米軍だけでは対処しきれない。もはや、日本人を腰抜けにしておく余裕は失われた。諸君の祖父や父親は、太平洋戦争において捨て身の自爆テロを展開したではないか。「咲いた花なら散るのは覚悟」と謳ったではないか。

 そう、武士道は自爆テロを敢行し続けるテロリストの側に移ってしまった。諸君はお株を奪われたんだぞ。せめて思い出せ。この映画に示したように、明治新政府は反乱士族が最後に敢行した玉砕的突撃の精神を、受け継いだ。農民からなる新政府軍の兵士らは、士族が玉砕することによって示した武士道を、目の当たりにすることで、命のやりとりの最中におのが眼底にその何たるかを焼き付けた。「人間としてのサムライ」は「観念としてのサムライ」として、明治政府に受け継がれたのだ。

 この「受け継ぎ」の仲立ちを果たしたのは、北軍騎兵将校である。彼は総大将が切腹に用いた刀を明治新帝に持参するが、新帝がそれを受け取った瞬間、武士道は維新政府に受け継がれたのだ。以後、日本は日清・日露の戦役、第一次大戦、満州建国、中国侵略、そして太平洋戦争と、列強との植民地獲得競争とその落とし前の戦争に武士道を総動員していく。「第一のマッカーサー」の役目は、その武士道を破壊することだったが、「第二のマッカーサー」の役目はそれを再び喚起することにあったわけだ。

 われわれはこの映画のメッセージをどう受け止めればいいのだろうか?

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