文 宮脇孝雄
The Start of the End of It All
by Carol Emshwiller

想像力の鍛練のために存在する傑作短編集

 豊かな想像力、自由な想像力とはよく使われる言葉だが、人間の想像力は意外に横着なものである。寝そべったままで、なかなか起きようとしない。そこで、想像力を豊かに使いこなし、自由にはばたかせるには、それなりの修行を積まなければならない。では、眠っている想像力を叩き起こすにはどうすればいいか。それには、驚きの感覚を磨く必要がある、と私は考える。

 たとえば、ネズミがしゃべる、とする。たいがいの人は驚く。そして、驚くことによって想像力が刺激される。しゃべるのはこの一匹だけか? なぜしゃべるようになったのか? しゃべるだけでなく、文字も知っているのか? 驚くことがなくなれば、それはただの日常にすぎず、想像力が発揮される余地もない。しゃべるネズミといえば、ミッキー・マウスとその仲間たちが有名だが、たぶん初めてそれを目にする幼児を別にすれば、いまさらミッキーやミニーを見たところで誰も驚かないだろう。あのディズニーのキャラクターに想像力を刺激されることがないのは、そのためである。

 もう一ついえば、映画の『ロード・オブ・ザ・リング』を見て、プレイ・ステーションなどのロール・プレイング・ゲームと同じだという感想を述べた大学生がいたが、それは違う。最初に『ロード・オブ・ザ・リング』(の原作の『指輪物語』)があって、RPGがみんなその真似をしたのである。『指輪物語』には驚きがあり、それを読んだ者は誰もが想像力を刺激された。その経験を持つ者にとって、のちのRPGは、いわば「ミッキー・マウス」であるにすぎない。

 驚きを忘れると、人は想像力を眠らせる。そして――話が飛躍するかもしれないが――ある種の小説は、想像力の鍛錬のために存在するのかもしれない。

 たとえば、キャロル・エムシュウィラーの小説。この女性作家は主にSFやファンタジーの分野で知る人ぞ知る存在だが、どのジャンルからも(いわゆる純文学からも)はみ出してしまうような作風の持ち主なので、SFやファンタジーといった枠組みを頼りにして小説を読もうとする怠惰な読者からは難解な作家だと思われてきた。 しかし、 短編集、The Start of the End of It All(『すべての終わりの始まり』)を読んでみると、そんな印象は誤りで、想像力さえあれば楽しめる傑作がいくつもある。

 例を挙げれば、Looking Down という短編は、次のような書き出しで始まる。

 Those with heavy thighs, flat faces, funny little teeth all in a row. We fly down and knock them over with nothing more than the rush of our air. Not even touch them. And they, yearning after us, try to invent ways to get themselves up into our sky while we squawk by, laughing. We could save them when they fall, but we never do. We let them drop down in their imitation wings, gliders, and such, and they always do drop.

 「脚は重たく、顔は扁平で、一列に並んだ滑稽な小さな歯を持つ者。おれたちは舞い降りて、ただの空気の一押しでやつらをなぎ倒す。触ることさえもない。おれたちに憧れて、やつらは、われらの空を飛ぶ方法を考えようとするが、こちらは、らあらあと笑いながらそばを飛ぶだけだ。落ちるときに助けてやることもできるが、そんなことは決してしない。まがい物の翼をつけたり、グライダーに乗ったりしたまま、落ちるにまかせる。しかも、やつらはいつも落ちるのだ」


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