文 宮脇孝雄
 Harry Kemelman
Harry Kemelman(ハリイ・ケメルマン)は1908年にボストンに生まれた。ハーバード大学で修士号を取り、戦前は国語の先生、戦後は大学教授などの職に就く。1964年からラビ・スモール・シリーズを12作発表して作家としての名声を高める。1996年逝去。本書は唯一の短篇集で、日本では1976年に『九マイルは遠すぎる』として早川書房から出版された。以後、各種のアンケートやベスト選びの常連になっている。
[The Nine Mile Walk]
by Harry Kemelman

ユダヤ系作家の端正なミステリ短篇集

 アメリカの文壇でマラマッドなどのユダヤ系の作家が評判になっていた1960年代、ミステリの世界にもハリイ・ケメルマンというユダヤ系の作家が登場して人気を集めた。1番有名な作品は、1964年から始まったラビ・スモール・シリーズの第1作Friday the Rabbi Slept Late(邦題『金曜日ラビは寝坊した』)だろう。これはユダヤ教の聖職者(「ラビ」と呼ばれる)デイヴィッド・スモールが探偵役を務める長篇ミステリで、都市の郊外で暮らすユダヤ人たちを生き生きと描いて、当時のミステリには珍しくベストセラーになった。

 ケメルマンさんは、短篇では、ニコラス(ニッキー)・ウェルトという大学教授の活躍を、マサチューセッツ州フェアフィールド郡の郡検事である「私」の語りで描いたシリーズを書いている。この短篇シリーズは全部で8篇しかないが、いずれも水準以上の佳作ばかりで、この8篇をまとめた作品集The Nine Mile Walk(1967年)は、今でも根強い人気がある。現代短篇ミステリを書く人の教科書といってもいいくらいで、探偵役はインテリの常識人、犯人は追い詰められた普通人、舞台はどこにでもありそうな大学町という平凡すぎる設定を、作者は興味津々のミステリに仕立て上げている。派手な話ではないが、ニッキー・ウェルト教授の推理は人の思考の盲点を突いたもので、そのロジックに読者は思わず膝を打つだろう。

 表題作のThe Nine Mile Walk(邦題「9マイルは遠すぎる」)はこの作家のデビュー作で、1947年に発表された。最後のThe Man on the Ladder(邦題「梯子の上の男」)は1967年の作品。つまり、この短篇集は20年にわたって書かれた作品を集めたものということになる。

 世評が高いのは表題作で、これは「私」とニッキー・ウェルトが、あるレストランで、

 A nine-mile walk is no picnic, especially in the rain.

 という一言を小耳にはさんだことから話が始まる。この台詞、仮に、「9マイル歩くなんて、とんでもないことだな。雨ならなおさらだ」と訳しておく。

 ニッキーは英語の教授なので、この一言から何がわかるか、頭の体操のつもりで、考えてみることにする。たとえば、〜is no picnicという表現から、話者がうんざりしていることがわかる。especially in the rainからは、話者が雨が降るのを予想していなかったことが見てとれる。そして、nine-mileという言葉からは、実際に話者が9マイル歩いたか、あるいは、歩く予定でいることがうかがえる。10マイルという切りのいい数字ではなく、9マイルという具体的な数字だからである。

 ……といった具合に推理遊びをしているうちに、実際に今進行している事件の存在に気がつき、2人はそれを未然に食い止めるのだ。



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