
もし言葉が通じない海外で災害に遭ったら――。岩手、宮城、福島の3県における外国人登録者数は約3万3000人。他の地域も加えれば、さらに人数は増える。震災後も、日本語が分からないために情報が入手できず、不安を抱える外国人は少なくない。
そんな中、今回真っ先に支援に乗り出したのが、滋賀県大津市のNPO法人(特定非営利活動法人)多文化共生マネージャー全国協議会だ。
同協議会は自治体職員やNGO(非政府組織)関係者などで構成される団体で、2009年2月に設立。日本で暮らす外国人との共生や災害救援に取り組んできた。
今回の震災に際しては、3月11日の地震発生直後、大津市内の全国市町村国際文化研修所内に「東北地方太平洋沖地震多言語支援センター」を直ちに設置。翌12日には外国人被災者向けホームページを開設し最新情報を発信すると共に、電話での相談窓口「多言語ホットライン」もスタートさせた。

専用ホームページの立ち上げを手掛けたのは、各自治体の職員や国際交流協会の職員、NGO関係者など、全国から集まった100人以上の有志たちだった。
まず膨大な震災関連情報の中から、被災者に必要なものを取捨選択し、日本語の原稿を作成する。それを各地の協力団体を通じて翻訳者へ送り、仕上がってきたものから順にホームページに掲載した。英語や中国語など10カ国語だ。
今回の活動の頼みの綱は、何と言ってもボランティアの翻訳者である。原則、緊急時を除き1日1回、前日18時までに各団体へ発注。翌日12時までに返してもらうというタイトなスケジュールだ。発信した情報は約6週間で137件。1日に5つの記事を載せることもあり、当初は時間との闘いだった。それでも期間中、毎回約束どおりに翻訳が送られてきたという。
後藤美樹さんは、自身が理事を務めている(特活)多文化共生リソースセンター東海から声をかけられたことがきっかけで、フィリピン語の翻訳およびコーディネーターを担当。後藤さんは阪神・淡路大震災時も通訳・翻訳ボランティアとして活動した経験がある。
当時に比べてパソコンが格段に普及したため、メール上でやり取りできるなど翻訳作業の効率は格段に良くなったが、それでもやはり苦労はあったという。
「翻訳者はメーリングリストに加入していただき、翻訳依頼があるたびに、翻訳可能な人に手をあげてもらいました。翌朝、私がチェックしてすべての翻訳を取りまとめセンターに送っていましたが、連日、仕事の合間の時間をやり繰りするのに苦労しました。もちろん、それは翻訳ボランティアにかかわってくださったみなさんも同じだと思います」と後藤さんは振り返る。
その中でもうれしかったのは、たくさんの人が協力を申し出てくれたことだという。「震災翌日からたくさんの翻訳依頼があったため、自分一人で対応できず、大学の後輩やOG、OBを中心に各方面に呼びかけたら、最終的に日本人、フィリピン人合わせて17人が名乗りを上げてくれました。みなさんの力があったからこそ翻訳作業をスムーズに進められたと思っています」

多文化共生センター大阪の
田中裕子さん
また、行政サービスや制度については、フィリピン語で説明的に翻訳し、その後に日本語をローマ字で併記することもあった。読み手がそれを読んで、実際にサービスを利用できることが大切だと考えたからだ。「そうすれば役所の窓口で、うまく日本語で説明ができなくても、日本語の名前を伝えれば、制度利用につながります」
ホームページは翻訳者の善意で成り立っている。それを無にせず、かつ息切れしないで活動が続けられるよう、翻訳コーディネート業務を担当した多文化共生センター大阪の田中裕子さんら、センター側も気を配った。
とりわけ日本語の原文作成には念を入れた。翻訳者にはその言語のネイティブも多かったため、日本語が複雑すぎると理解に時間がかかるし、誤訳につながるからだ。そこで文章の枝葉の部分はカットしたり、分かりにくい部分には注釈をつけたりして1時間程度で訳せるように工夫。文章量は長くてもA4判用紙1枚程度にとどめた。
頭を悩ませたのは、福島第1原子力発電所の事故の伝え方だ。政府や東京電力からの情報には「直ちに影響はない」など微妙な表現が少なくない。
「うまく翻訳しないと、国民性や言語の特色により微妙なニュアンスが伝わらない。情報は正確に、かつ日本人が受け取る感覚とズレが生じないように、チーム内で議論を繰り返し言葉は慎重に選びました」。在ブラジル日本大使館での勤務経験があり、自身もポルトガル語の翻訳を手掛ける田中さんはこう説明する。
