2016.03.02 Wed

第5回 青木陽子さん「中国で日本語教育を通して視覚障害者の自立を支援」

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PROFILE

青木陽子さん。埼玉県出身。6歳の時、予防接種後の高熱で視力を失う。筑波大学付属盲学校、南山大学を経て、アメリカに留学。1989年、ニューヨーク州立大学バッファロー校の教育学修士課程修了。93年に中国の天津外国語学院に入学。95年に天津市視覚障害者日本語訓練学校を開校。2001年には中国政府から中国友誼賞を、04年に毎日国際交流賞、10年に外務大臣表彰を受賞。アジア視覚障害者教育協会会長。趣味は、カラオケとお酒と映画鑑賞。

 昨年の秋、中国の天津から7人の視覚障害者が参加した一行が北海道にやって来て、ジンギスカン鍋に舌鼓を打ち、クマ牧場ではしゃぎ、アイヌ文化博物館で日本の少数民族について学んだ。このツアーを企画した青木陽子さん自身も全盲である。

 「視覚障害者のための日本語訓練学校設立の20周年記念に企画したんです。教え子やその家族たちが24人も参加してくれました。働いて、こつこつと貯た めてきたお金を“散財”した障害者たちが『自分の稼いだお金で旅行ができた!』と喜んでくれたんです。彼らの自立支援のために学校をつくったので、うれしい反応でした」。

 ツアーの2カ月後、青木さんの自宅を訪ねると、来日中の李勝彦(りかつひこ)さんと傳春霞(ふしゅんか)さんご夫妻も一緒に迎えてくれた。青木さんが「李パパ、李ママ」と呼ぶ、家族同然の存在だ。出会いは22年前にさかのぼる。アメリカの大学院で学んでいた青木さんは、各国の留学生との交流を通じて、視覚障害者への教育や自立支援の環境が日本よりも厳しい国がアジアに多いことを知った。中国での活動を志し、研究者への道を切り上げて帰国、中国語を学ぶために家庭教師についた。それが、ご夫妻の息子で、日本で働いていた李爽(りそう)さんだった。わずか半年で高いレベルの中国語を身に付け、自身の障害や国の違いをものともせず、身寄りのない未知の世界に飛び込もうとする青木さんの姿を見て、爽さんは故郷の両親に連絡を取った。

中国の〝両親〟の支援で留学

 「小さな体にはち切れそうな大志を抱いて、怖いもの知らずの『娘』が日本からやって来たんだ」。
 
 日本が戦争に敗れた70年前、幼子だった李勝彦さんは人生の分かれ道にあった。中国人と結婚し、長春で暮らしていた日本人の母と祖母は引き揚げ船に乗らず、異国に残って子どもたちを育てる道を選んだ。もう一つの祖国からやって来た青木さんのことが他人とは思えなかったと言う。「1961年の生まれと聞いてピンときたんだ。その年に亡くなった祖母の生まれ変わりに違いないってね」。
 
 しかし、当時の中国では全盲の留学生の受け入れは前例がなかった。李さんが天津市や大学の関係者への説得に奔走した結果、夫妻が後見人になるという条件で、天津外国語学院への留学がなんとか認められた。こうして93年に留学を果たした青木さんは、95年3月に天津市視覚障害者日本語訓練学校をアパートの一室に開校した。李さんが校長に、傳さんが教頭になった。傳さんは、当時、小学校の教師として働いていた。

 「陽子の学校で働くために仕事を辞めると小学校の校長に伝えたら、『それは素晴らしい活動だ。小学校から派遣する形にしたい』と言って、給料を払い続けてくれたんです」。

12畳ほどの広さの教室には、毎週末、15人程度の全盲や弱視の若者たちが通ってきた。

 「最初は、彼らの意識を変えるのに苦労しました。自分は何もできないと心を固く閉ざしていた子が多かったんです。でも、授業を重ねるごとに、自信が付くのか、よく笑い、冗談も飛び出すようになりました」と青木さんは語る。

 青木さんの明るさには接する人を変えてしまう力がある。その行動力も同じハンディを持った若者たちを驚かせ、希望を与えたはずだ。授業で学べるのは日本語だけではない。

 「先生の話すことは絶対という教育を子どものころから受けてきた影響が強いんです。だから、覚えることは得意でも、考える力が弱い子が多い。会話の授業では、例えば今なら『安保法案』や『尖閣問題』などについても取り上げます。日本人の立場や考え方を伝えてもかたくなに否定する子もいます。でも、国際社会で中国の存在が大きくなっていく中、彼らには自分で考えて判断する習慣を持ってほしいと願っています。日本に行くなら、靖国神社に行かなきゃダメ! そう伝えているんです。与えられた情報だけでなく、その場に足を運び、自分の頭で考え、賛成か反対かを判断してほしいんです」。

 日本語訓練学校には、視覚障害者だけでなく、健常者も参加している。

 「99年に念願がかなって、健常者も受け入れられるようになりました。最初は、目の不自由なかわいそうな人たちの勉強を助けてやろうと、優越感を持ってやって来るんですね。でも、発音や聞き取りなどでは視覚障害者のほうがよくできることが多く、彼らの障害者を見る目が変わっていきます。一方、障害者たちは、健常者と一緒に学び合うことで、自分たちが決して劣っているわけではないんだと気付くんです」。

 これまで500人以上が学校を巣立っていった。中には、日本に留学したり、日本語教師になったり、障害者を支援する側に回った者もいる。

苦労も共に乗り越える

 現在、学校の存続は危機にさらされている。学費を無料とするために、アジア視覚障害者教育協会の会費収入で学校は運営されているのだが、日中関係の悪化によって日本からの会費納入額が減り、急激な円安にも直面している。さらに、青木さんが父親の介護のために日中を行き来する生活を余儀なくされ、青木さんが中国不在の間は日本語訓練学校の活動は休止せざるを得なくなっている。試練は続く。李さん、傳さん、青木さんが続けて、がんを発症してしまったのだ。深刻な状況の中でも、数あまた 多の苦労を共に乗り越えてきた3人の会話には笑いが絶えない。

 「最近、甲状腺がんの手術が成功し、心配していた声も元の通りです。教師にとって、声はどうしても失えないものですからね。それに、高音が出せなくなったら、カラオケのレパートリーを変えなきゃいけないと心配していたんですよ(笑)」。

 毎年開催するクリスマス会では、学校に関わってきた多くの人が集まり、クイズやカラオケで大いに盛り上がる。「昨年(2014年)は、最後に第二の故郷となった中国への感謝の念を込めて、中島みゆきさんの『麦の唄』をみんなで合唱しました」。

 我慢の時期が続くが、まずはできることをやっていくつもりだ。北海道ツアーには、早速、第2弾を求める声があった。傳さんは語る。「北海道の自然や街並みの美しさだけでなく、旅館やレストランで行儀良く振る舞っていた日本の子どもたちや、笑顔であいさつしてくれた見知らぬ人たち。そんな出来事が参加した障害者やその家族たちにとって、発見の連続だったんです」。

 70年前に母親が帰国していれば、今ごろ、どこかで「日本人」として暮らしていたはずの李さんも語る。「こうした出自だからこそ、戦争を憎み、平和を愛する気持ちは人一倍強いんだ。私たち庶民同士は、仲良くやっていかなければ。だから、今回のツアーに参加した8歳の女の子が、『ありがとう』『こんにちは』と1日1つずつ日本語を覚えたいと言ってくれたのはうれしかったなあ」。

 偏見や差別やコンプレックスといった感情は人の心を不自由にする。多くの人の心を自由にしてきた青木さんの活動は、「家族」の愛に支えられてこれからも続いていく。

■DATA
「中国の日本語教育について」
日本語学習者数1,046,490人
日本語教育機関1,800機関
日本人日本語教師数2,372人
※国際交流基金2012年度日本語教育機関調査結果より


「視覚障害者について」
日本の視覚障害者総数
314,900 人
※厚生労働省平成18年度調査より
世界の視覚障害者の総数
2 億8,500 万人
(全盲:3,900万人、弱視:2億4,600万人)
※2010年度世界保健機構(WHO)による推計

取材・文:村上 充  撮影:高梨光司(プロフィール)、青木陽子(下記2点)

李パパこと李勝彦さんと李ママこと傳春霞さん。2015年に2人も外務大臣表彰を受賞した









平日、盲学校や大学で学ぶ学生たちが、週末に日本語を学びに通ってくる










[ お知らせ ]
天津市視覚障害者日本語訓練学校の活動資金への支援を募集しています。ご関心のある方は、編集部のメールアドレスまでご連絡ください。なお、個人会員の年会費は3,000円です。




☆本記事は、語学学習や異文化情報が満載のクラブアルク会員誌『マガジンアルク』にも掲載されています。

 
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