執筆:荒川洋平



今日は待遇表現についてのおたよりを紹介します。  10/25 Up

はじめまして。日本語ってやればやるほど奥が深いことに気づきました。
質問なのですが「行く」の尊敬語は
「いらっしゃる」「行かれる」が一般的だと思うのですが、
「お〜なる」の形に当てはめると「お行きになる」も
正しいのでしょうか?
いろいろと調べたのですが、よく分かりません。よろしくお願いします。
(東京都・S)

結論を先に書くと「お行きになる」は

統語的に間違いではないが、
あまり使うことがないので語用上は適切ではない

ということです。言い換えれば、
文法の理屈からこの形を作ることはできますが、
それはあまり用いられることはない、ということです。

モノゴトは、それに合うことばと1対1の対応をしているわけではありません。

動植物の分類をする場合などは、その対応づけを意識的にするものですが、
実生活では人はずいぶんいいかげんにことばを使っているものです。
たとえば「電球が切れた」は電球のフィラメントが切れたことですが、
そこまでは言いません。
電球という「全体」でフィラメントという「部分」を伝えれば十分です。
あるいは部屋にフタホシヒラタアブが飛んで来た場合でも
「虫が入ってきた」というのが普通です。虫という「類」で、
フタホシヒラタアブという「種」を言い換えることができます。

この「1対1対応ではない」事実は日本語と他言語の間にも見られますから、
教える場合にも注意が必要です。

たとえば「上がる」は英語で rise, climb, go up, mount, lift, ascend など
いろいろですね。また逆に 
rise は日本語で「上がる」「上る」「上向く」「増す」「起きる」など
さまざまです。

さて「お行きになる」ですが、

上に述べたように日常で用いられる頻度が高いことばの場合、
あるモノなり動作なりを示すことばが多種類あることは、むしろ普通です。
現在地を基点にどこかへ移動・進行することを示す「行く」などは、
基本語の最たるものでしょう。ですから、その敬意を示す言い方も
「いらっしゃる」「行かれる」「おいでになる」など、
意味の重なり合いを保ちながら、並存・併用されています。

ことばがこのような状態にあると、ほぼ同じ意味を示す場合も
「頻度が高く、受け入れられやすい中心的な表現」
「頻度が低く、あまり用いられない表現」
「ほとんど用いられない表現」

など棲み分けがなされるのが普通ですし、
最後のものなどは正しいか否かの判断さえ微妙になります。
このような現象は、プロトタイプ効果と呼ばれます。
プロトタイプ効果で考えると「お行きになる」は中心とは言えず、
「敬意を示す効き目」から考えると、
周辺どころか、「明確な敬意」という範疇からはずれるかもしれません。
というのは、敬意を示す表現の場合、
形態的に複雑で音声的に長いものの方が、
敬意を示す度合いが上がるのが普通だからです。
「行かれる」はたまに見聞きしますが、
これは「られる」が「お〜になる」以上に敬意を示す
簡易な有標として認識されているからでしょう。

つまり、「お行きになる」ではあまり敬意は示せません。
「お読みになる」など、他の言い方がない場合、
「お〜になる」は相応の敬意を示すことができます。
けれども、「いらっしゃる」も「おいでになる」もあるのに、
わざわざ「お行きになる」が選ばれた場合、
聞き手は「敢えてそうではないものを選んだ」ことで、
敬意ではない何かが伝えられたことを感じる可能性があります。

例えば、あるお茶屋さんがどなたか賓客を迎えるとしたら、
商売柄「ウチにあるものでいちばんいいお茶を」と考えて、
それなりの質の煎茶なり、玉露なりを出すのが普通です。
それなのに、ことさらに安い番茶が出てきた場合、
その賓客は、お茶を出されるには出されましたが、
あまりいい気分ではいられないはずです。
つまり「いらっしゃる」が玉露、「お行きになる」が番茶です。

おたよりありがとうございます。

日本語だけではなく、どのことばもみんな奥が深いのです。
小さな疑問からはことばの特性がさまざまに見えてくるものです。
日々の教育に活かしていってください。

今回で、この連載は終了です。
おたよりをくださった皆さん、どうもありがとうございます。
また、ご質問に答えられなかった皆さんには、お詫び申し上げます。
日本語教育は、従来の教育の枠組みで捉えられない課題がたくさんあります。
しかし未開拓である分、そこで得られる知見には
従来の教育に対する有効な解決法が潜んでいるのです。
日々の課題から目をそらさず、しかし理想の旗は決して降ろさず、
行動する知を実践していきましょう。

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