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通訳ソーウツ日記

各界の現役通訳者が通訳現場のさまざまな話題やこぼれ話を語ります。


足すべきか足さざるべきか

  押味貴之(英語医療通訳者・翻訳者・医師)


イラスト

「タナグラのダーモクとジラードだ」。理想の通訳を説明する時に私がよく引用する『スタートレック』でのセリフだ。協力を申し出るピカード船長に対し、タマリアン星人が冒頭のセリフで応答するが、意味のわからないピカード船長は「一体何の話をしているんだ?」と困惑する。もしもここで優秀な通訳者がいれば、このタマリアン星人の返答は「その昔、ダーモクとジラードという敵対する者同士が、互いの利害を忘れ、タナグラという場所で共通の敵と戦ったように、われわれもあなた方と共に戦おうではないか」と通訳できたはずだ。このように理想の通訳者には元の表現に「足したり引いたり」しながら、話し手同士が理解できる表現に上手に変換することが求められるのだ。




通訳者の主観を徹底的に排除する医療通訳

しかし医療通訳では「何も足さない、何も引かない、何も変えない」ということが原則になっている。これは医療者や患者の表現を医療通訳者が十分に理解できないということが前提になっているためだ。可能な限り正確な表現に変換するように、医療通訳では話し手が話し終わってから通訳する逐次通訳という様式が推奨され、話し手と同じ一人称で通訳することが期待される。また内容だけでなく、話し手の語調も再現することが求められるのだ。これらは全て医療通訳者の主観を可能な限り排除し、「何も変えない」通訳を実現する仕組みなのだ。

これ以外にも医療通訳では「何も足さない、何も引かない、何も変えない」通訳にするための仕組みがある。その代表例が「位置」と「視線」だ。医療通訳者は基本的に「患者の斜め後ろ」に座って通訳をする。また通訳をしている最中は医療者や患者と「視線を合わせない」ように注意する。一見すると不自然な行動のように思えるが、こうすることで医療者と患者が直接視線を合わせて会話をすることが可能となり、通訳者の主観が入りにくい「何も変えない」通訳が可能となるのだ。

そんな「何も変えない」通訳が求められる医療通訳においても、「タナグラのダーモクとジラード」のような表現を通訳する際には「足したり引いたり」することが求められる。面白い例が「エビのように丸まってください」という表現の通訳だ。日本ではよく、硬膜外麻酔の際に麻酔科医は患者に「エビのように背中を丸めてくださいね」と指示をするが、これをそのまま英語にしても英語圏の患者はほぼ全員が困惑する。英語圏の感覚では「エビはそもそも丸まっていないし、たとえ茹でたエビであっても、丸まっているのは尻尾であって背中ではない」という前提があるからだ。従って通訳する際には「胎児のように背中を丸めてください」や「怒った猫のように背中を丸めてください」のような表現にすることが求められるのだ。

正確性が何よりも求められる医療通訳においても、「医療者の一員」のように付加的な役割を持って「足したり引いたり」する通訳は患者の利益に繋がる。しかし背景知識や経験の少ない通訳者が下手に「足したり引いたり」することは危険であり、「機械的な通訳」に徹するほうが無難だ。この難しい問いに関して残念ながら正解はない。優秀な医療通訳者になるためには、この矛盾に向き合い、常に「足すべきか足さざるべきか」を自問自答する姿勢が求められていると思うのだ。



イラスト つぼいひろき
マガジンアルク』2017年1-2月号掲載

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