「いろんな翻訳者が
色の違うピースを持ち寄ってみたら、
『翻訳』というモザイク画ができあがった」

~『文芸翻訳入門』刊行に寄せて~

写真:藤井光さん

update:2017/03/28

翻訳者志望者を中心に刊行前から注目を集めていた書籍『文芸翻訳入門』が出版された。いくつかの章の執筆および一冊全体の編集を担当した藤井光さんにお話を聞いた。

多彩な執筆者たちに共通する翻訳への深い愛情

現代アメリカ文学の気鋭の研究者であり、翻訳者としても数々の話題作を手掛ける藤井光さん。その藤井さんが編者、共著者として制作に携わった『文芸翻訳入門 言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち』が、3月24日にフィルムアート社から刊行された。

「僕が日ごろ仕事をしている環境だと、アメリカ文学の研究者で、かつ翻訳もしているという方が多いんです。でも、この本では韓国文学やトルコ文学の翻訳者、ドイツ映画の字幕翻訳者といった方々にもお声がけするということだったので、僕がまったく知らない分野の翻訳について話を聞ける絶好の機会だと思い、企画段階からとても楽しみにしていました」

藤井さんがこう話すように、本書の執筆陣には沼野充義さん、西崎憲さんをはじめ、さまざまな分野で活躍する翻訳者たちが名を連ねている。彼らから寄せられる原稿の一篇一篇に目を通していくことは、藤井さんにとっても新鮮な読書体験だったようだ。

「それぞれの分野に応じて文化のあり方が違うし、その文化の中で文学がもつ役割も違う。どんな書き手の言葉に接しているかという点でもバックグラウンドが異なるので、翻訳におけるいろいろなアプローチの仕方を学びました」

その一方で、すべての原稿を読み終えたときには、多彩な執筆者たちに共通する思いも浮かび上がってきたそうだ。それは、翻訳に対する深い愛情。そして、原文が持つものをできる限り尊重し、再体験しながら訳そうとする姿勢だ。

「Actual Work 3/翻訳の可能性と不可能性」の章を担当したフランス文学翻訳者の笠間直穂子さんは、原稿の最後に「いずれ作品のために消える準備を整えていきましょう」と記している。この言葉は、藤井さんの心に印象深く残った。

「『黒子に徹する』とか、表現の仕方はいろいろありますが、これはすべての翻訳者が共通して目指している境地なんでしょうね。僕自身も、半分はそこを目指したいと思い、残りの半分は無理だろうなと思いながらやっています。いただいた原稿を読みながら、どの寄稿者も皆、自分を出さずに翻訳を出すことの面白さと難しさのバランスに心を砕いていると感じました」

先人たちの翻訳を入試問題形式で振り返る

写真:藤井光さん

本書で藤井さんは、前書きと後書きに加えて2章分の原稿を担当した。その一つが「Basic Work 1/『下線部を翻訳しなさい』に正解はありません──それでも綴る傾向と対策(一五○年分)」。明治から現代までの文芸翻訳史を振り返り、その変遷をひもといていく内容だ。

特筆すべきは、この章全体が入試問題とその解答・解説を模して書かれている点だろう。原文は「入試問題」、訳例は「解答例」。藤井さんがこれを「解説」するというスタイルになっている。

「執筆時期が冬だったので、たまたま思いついたアイデアです。入試が終わると、予備校から模範解答が発表されますよね。ただ、あれはあくまで予備校が解いたらこうなりましたという例であって、本当に正解かどうかは分かりません。そのことが何となく気になっていたのですが、今回、翻訳には正解がないんだということを分かってもらうために、あえて入試スタイルを採用することにしました」

例えば、最初の「設問」はこんな具合だ。

A. 1886年(明治十九年)入試問題より

設問 次の英語の作品名を日本語に翻訳しなさい。

Romeo and Juliet

解答例 露妙樹利戯曲・春情浮世之夢

現在では『ロミオとジュリエット』として知られるシェイクスピアの戯曲も、150年前にはこのようにつづられた。解答担当者、すなわち翻訳者は河島敬蔵。

解説の中で藤井さんは、西洋の思想に対応する訳語も整備されていなかった時代にあって、今とは比べものにならなかった翻訳者たちの苦労に思いをはせ、その試行錯誤が現代の日本語を生み出してきたと振り返る。

「今、21世紀に翻訳している僕たちの後ろにどんな人たちがいたのかを見てみるというのが、この章の趣旨です。先人たちの試行錯誤の先に僕たちがいる。そういうつながりの感覚を共有できればと思いました」

Profile

写真:藤井光さん

藤井 光

1980年大阪生まれ。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。現在は同志社大学文学部英文学科准教授。現代アメリカ文学の気鋭の研究者であり翻訳者。『煙の樹』(白水社)、『タイガーズ・ワイフ』『すべての見えない光』(新潮社)ほか訳書多数。2017年夏には、イラク出身の作家ハッサン・ブラシムの短編集『The Corpse Exhibition(原題)』の訳書が白水社より刊行予定。