「翻訳フォーラムシンポジウム2016」レポート 講演1 井口耕二「体育会系翻訳トレーニング論」

update:2016/08/01

「自分はどうなりたいか」を考える

実務翻訳と出版翻訳で20年以上のキャリアを持つ井口耕二さんは、近年の翻訳業界(おもに実務翻訳)を表すキーワードとして、以下を挙げる。それは、「料金削減、納期短縮、差分翻訳、CAT(コンピューター翻訳支援)ツール、海外勢参入、安価なリライト、MT(機械翻訳)導入」だ。中国やインドの会社が日本語関連の翻訳に参入し、安値で仕事を請け負うようになった結果、日本の翻訳会社にも値引きで対抗するところが現れ、結果的に国内での単価引き下げにつながっている。また、機械翻訳の手直しをするポストエディットや、質の悪い翻訳のリライトといった、以前は見られなかった新たな仕事も登場しているという。

写真:井口耕二さん

「これらすべてに頑張って対応しようとすると、たいてい先行きが暗くなってきます。それよりも、5年後、10年後、20年後に自分はどうなりたいのか、そこにつながるのはどんな道なのかを考えて、何をやるか、やらないかを判断する方が、未来は明るくなります」と、井口さんは話す。

井口さんが専業の翻訳者として独立したのは1998年、38歳のとき。その際、長期的な計画として「60歳を過ぎたら、わがままな翻訳者になり、自分が訳したいと思う案件を、訳したいと思う量だけ訳す」ことを目標にした。これを実現するためには、断っても仕事が来るぐらいの実力が必要。そこで、40代はとにかくがむしゃらに仕事をして力を付けることにした。60歳に近づきつつある現在、「全体としては自分のねらった形になりそう」と、これまでの歩みを振り返る。

翻訳の仕事とは何か

一口に「翻訳の力を付ける」と言っても、具体的には何をするのか。そもそも、「翻訳」とは何か。井口さんは、翻訳の作業プロセスを「循環するもの」と表す。

「原文を読み取る。原文と訳文が対応するように訳文を作る。出来上がった訳文の完成度をチェックする。訳文に不自然な表現があれば、手直しする。手直しすることによって、原文と訳文との間にずれが生じる場合がある。そこで、原文をもう一度読んで対応させる。こうしてぐるぐる回るように作業をしていると、そのうち、回しても動かなくなる。そこで、ひとまず翻訳が完成ということになるのだと思います」

図:翻訳

原文を読む上では、単純に文章を読むだけでなく、作者が何を意図したのかを理解する必要がある。原文には原文の読者があり、彼らは彼らの常識に照らし合わせて、作者の意図を受け取る。それと同じものを訳文の読者にも渡すのが、翻訳者の務めだ。

「読者によって持つ常識が違い、受け取り方が変わります。さらに、原文も訳文も読者の常識が、自分の常識とずれていることもあります。こうしたずれの推測は、意外と難しいものです」

図:翻訳

また、原文と訳文を対応させるプロセスでは、言語間の差異が問題になる。

「とりわけ欧米の言語と日本語との間で翻訳をするときには、言語間の差異が大きいことがあります。ただ、同じ人間が使っている言葉ですから、共通性もあります。それらを考慮しつつ、差異を吸収し、原文と訳文とで中身が同じになるようにするのが、翻訳なのだろうと思います」

スポーツと同じ。翻訳でも基礎練習が大事

現在は翻訳業界の第一線で活躍する井口さんだが、かつてはフィギュアスケート、アイスダンスの選手として活動していた時期がある。いわゆる「体育会系」だった経験から、スケートでも翻訳でも、基礎練習の大切さは変わらないと話す。

「アイスダンスは華麗な競技ですが、その練習は意外なほど地味です。練習時間の半分はスケーティング、つまり滑るだけ。なぜかというと、滑ることが一番の基礎だからです。基礎練習をそれだけやらないと、あの華麗な演技はできないのです」

翻訳にも、基礎スキルと言うべきものはある。例えば、ある言語を日本語に訳す場合なら、「の」の連続を避ける、「は」と「が」の使い分け、「テン」の打ち方、文の切りつなぎの仕方など。一つひとつは細かなことばかりだ。

図:訳出の基礎スキル

井口さんは、このうち「の」の連続について会場の声を聞いた。すると、「2つまでは許容するが、3つ以上の連続は避ける」という人が多く見受けられた。「の」の連続を避けようと気を付けていながらも、実際にはうまくできていないという人もいた。

「逆接的な言い方になりますが、気を付けているからこそできないのだと思います。翻訳する上で気を付けなければいけないことは山ほどありますから、全てに気を配れるわけではありません。でも、本当に身についていれば、気を付けなくても自然とできるはずです」

翻訳の基礎スキルを数値で見る

井口さん自身は、専業の翻訳者になった1998年前後から、こうした基礎スキルの向上を意識するようになった。今では、何も考えなくても、訳文中に「の」が3つ以上連続することはほぼなくなったという。

これを実証するため、井口さんは、過去に仕事で訳した文章から「の」の連続を洗い出し、数値化した。すると、1995年には最大で「の」の6連続が登場。3連続、4連続が現れた回数も少なくない。これらは年を追うごとに減少し、2015年のデータでは、3回以上「の」が続くことは一度もなかった。さらに、匿名の翻訳者3名が訳した文章を素材に同様のデータを取って比較したところ、井口さんから見て翻訳が上手だと感じる人の方が、「の」の連続が出現する頻度は低いという結果が出た。

図:「の」の連続が出現した回数

もう一つ、翻訳の基礎スキルにかかわる要素に「訳文の長さ」がある。一般的な傾向としては、同じ内容であれば、より短い文の方が読みやすいとされる。これについても、井口さんは自身の訳文と、先に挙げた翻訳者3名の訳文について、平均的な長さを調べて数値化した。その結果、原文100ワードあたりの訳文の文字数は、井口さんが最も短くて252字。最も長い翻訳者では、293字だった。また、訳文1文あたりの文字数は、最も短い人が48字、最も長い人が63字。このふたりの訳文を比較して読めば、後者は明らかに「長い」と感じられるだろう。

一定期間、一つのスキルを集中的に練習する

こうして大量の訳文を分析し、数値化されたものを見ると、各人の持つ翻訳の基礎スキルが、訳文の仕上がりに大きな影響を及ぼしていることが如実に分かる。井口さんは、セミナーの最後をこう締めくくった。

「いろいろなスキルをいっぺんに身につけようとしても、全部に注意が行き渡らず、あぶはち取らずになってしまいます。お勧めは一定期間、一つのスキルだけを集中的に練習すること。私も3カ月や半年、ものによっては1年、2年と、一つのことだけを気に掛けるようなやり方で練習してきました。練習して体にしみこませなければ、スキルは身につきません。基礎練習、やりましょう!」

取材・文:いしもとあやこ
写真:森脇誠

Profile

写真:井口耕二

井口耕二

(いのくち・こうじ)

福岡県出身。東京大学工学部化学工学科卒業、米国オハイオ州立大学大学院修士課程修了。翻訳フォーラム共同主宰。主な訳書に『スティーブ・ジョブズ』(講談社)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』『リーン・スタートアップ』(日経BP社)、著書に『実務翻訳を仕事にする』(宝島社新書)などがある。

◎井口耕二さんのWebサイト
「Buckeye the Translator」

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