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「翻訳・通訳のトビラ」特別企画 講演レポート

トークイベント「ことばの魔術師 翻訳家・東江一紀の世界」

東江一紀(あがりえ・かずき)

1951年生まれ。出版翻訳家。北海道大学文学部英文科卒業。英米の娯楽小説やノンフィクションを主として翻訳する。『黄泉の河にて』(作品社)、『犬の力』(角川書店)、『ライアーズ・ポーカー』(早川書房)、『自由への長い道(上・下)』(日本放送出版協会)ほか訳書多数。「楡井浩一」名義でも活動し、ノンフィクションを中心に『なぜか、「仕事がうまくいく人」の習慣』(PHP)ほか多数の訳書がある。合計200冊以上の訳書を残し、2014年6月21日、食道がんのため逝去。死の直前まで翻訳を手がけ、同年9月に刊行された『ストーナー』(作品社)は大きな反響を呼び、第1回日本翻訳大賞で読者賞を受賞した。

写真:越前敏弥

越前敏弥(えちぜん・としや)

Profile/

出版翻訳家。『インフェルノ』『ダ・ヴィンチ・コード』(角川書店)ほか、ミステリー小説を中心に訳書多数。最近の訳書に『新訳版・災厄の町』(早川書房)、『支配者 チューダー王朝弁護士シャードレイク(上・下)』(集英社)など。朝日カルチャーセンター(東京・大阪)、学研カレッジ講師。翻訳ミステリー大賞シンジケート「読書探偵作文コンクール」事務局メンバー。ブログ「翻訳百景」

写真:布施由紀子

布施由紀子(ふせ・ゆきこ)

Profile/

出版翻訳家。『シェイクスピア・シークレット』(角川書店)、『核時計零時1分前 キューバ危機13日間のカウントダウン』(日本放送出版協会)、『夜明けまであなたのもの』『運命は花嫁をさらう』(二見書房)、『捜査官ケイト過去からの挨拶』(集英社)など訳書多数。フェロー・アカデミー講師。

2014年6月、62歳の若さでこの世を去った翻訳家の東江一紀さん。フィクション、ノンフィクションを問わず合計200冊以上の訳書を手がけ、その名翻訳は今なお多くの読者に読み継がれている。今回、東江さんの一周忌をしのんで、「ことばの魔術師 翻訳家・東江一紀の世界」と題するトークイベントが開催された。約150人もの参加者が集った、笑いあり、涙ありのイベントの様子をレポートしたい。

update:2015/08/03

あの「珍訳」から知る東江訳の魅力

写真:トークイベント

本イベントは、翻訳家の越前敏弥さんと、布施由紀子さんをはじめとする東江一紀さんの門下生である翻訳家が中心となって企画されたもの。会場となった東京・文京区「不忍通りふれあい館」の近隣にある書店をはじめ、都内のいくつかの書店では開催時期に合わせて、東江さんの訳書を多数販売するフェアも行われた。「東江さんの名訳を少しでも多くの人に読んでもらいたい」という実行委員の方々の思いが伝わってくる。

イベントの第一部では、まず、数多くある東江さんの訳書の中から「名訳・珍訳」が紹介された。開催の2〜3カ月前から、インターネット上で東江さんの名訳・珍訳を広く募ったところ、会場で配布した冊子にも載せきれないほどの数が集まったという。これらについては、すでに越前さんのブログ「翻訳百景」で公開されている。

「東江さんの名訳・珍訳の中で一番有名なものは、おそらく誰もがお分かりのこれですね」と越前さんが切り出し、前方のスクリーンに大きく映し出されたのは「決まり金玉」の文字。会場のあちこちで笑いが起きる。この訳が登場するのはドン・ウィンズロウ『仏陀の鏡への道』(東京創元社)。この訳語がどのような文脈で登場し、またどのような意味を持つのかを、越前さんが解説していく。

本作は、元ストリート・キッズの青年ニール・ケアリーが探偵役を務めるミステリー・シリーズの2作目。「決まり金玉」の訳語が登場するのは、ニールが、中国人の若者ウーと話す場面だ。スラングを交えて話すニールに対して、ウーは、自分にもスラングを教えてほしいと頼む。You teach some?(いくつか、教えていただけますか?)と請うウーに対するニールの返事が、Fuck yes.(決まり金玉)というわけだ。

「なぜこの訳語なのか、この時点では分からないけれど、もう少し読むと、この訳語には必然性があり、計算しつくされていることがだんだん分かってきます」と越前さん。例えば、この前後のニールとウーの会話において、ニールの話すスラングは「あたりきしゃりき」「きまりきんたま」「けっこうけだらけ」というように、すべて韻を踏むように訳されている。「一見、いいかげんなようでいて、実はとてもリズミカルな言葉ばかりを選んでいる。これらの訳語には、ニールらしさというものも表れていると思います。今回、改めてこの作品を読んでみて、東江さんの訳は、いろいろな部分で計算されているのだということを再認識しました」。

原文のニュアンスを忠実に再現

写真:トークイベント

続けて、ピーター・マシーセンの短編集『黄泉の河にて』(作品社)から、「センターピース」の一節が取り上げられた。本作は、第二次世界大戦が始まったころのアメリカを舞台に、あるドイツ系一族の物語を描いたもの。名訳として取り上げられたのは、語り手である14歳の少年が、祖母マドリーナを描写する場面だ。

In 1941, Grandmother Hartlingen, Madrina to the family, was considerably older than anyone I had ever known, ...という英文を、東江さんは「一九四一年、ハートリンゲン家の大黒柱であり、一族の者からマドリーナと呼ばれた祖母は、当時わたしの知る誰よりもずっと年長で……」と訳している。越前さんはこう解説する。「大黒柱という訳語を見ると、一瞬、そんな言葉は原文にないように感じます。ただ、Grandmotherには『おばあさん』というだけでなく、『偉大なる母』という意味もある。また、MadrinaのようにMad-で始まる言葉には、『母なる存在』という響きがあります。そうしたことをすべて総合すると、大黒柱という言葉を使ったこの訳文には、原文のニュアンスがすべて表現されていると感じます」。

このほか、続く英文に登場するgentlyやthoughtfullyといった単語に対し、東江さんがいかに原文のニュアンスをくみ取り、最良の訳語を練り上げているかも紹介された。「東江さんの訳を原文と突き合わせてみると、超訳などではなく、原文の言いたいことをもっとも忠実に表した訳なのだということに気づかされます。翻訳の勉強をしている方は、ぜひ、東江さんの訳書を原書と突き合わせて勉強してみてください」。越前さんはこう話し、第一部を締めくくった。