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IJET-25 レポート 村上春樹 vs. カラマーゾフ 現代日本の翻訳文化と世界文学

写真:沼野充義

講演者:沼野充義さん NUMANO Mitsuyoshi
Profile

東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授。2009-2013年、日本ロシア文学会会長。毎日新聞書評委員、読売文学賞選考委員。専門はロシア・ポーランド文学、現代文芸論。東京大学大学院満期退学、フルブライト留学生としてハーバード大学大学院博士課程に学ぶ。ワルシャワ大学講師、東京大学教養学部助教授を経て、現職。著書、訳書多数。訳書にナボコフ『賜物』(河出書房新社)、『新訳チェーホフ短編集』(集英社)、シンボルスカ詩集『終わりと始まり』(未知谷)など。

古典新訳ブームに見る、村上春樹とカラマーゾフ

「今、日本で最も人気のある作家は誰ですか、と外国でよく聞かれます。そんなとき私は、村上春樹とドストエフスキーだと答えるんです」

こう話し始めた沼野充義先生は、ロシア・ポーランド文学の第一人者。チェーホフやナボコフ、レムなど、数多くのロシア・ポーランド文学作品を訳した翻訳家でもある。今回のIJET-25では、村上春樹とカラマーゾフという日本・ロシア文学を代表する作家を題材に、古今東西にわたり文学翻訳の世界をひもとく講演が行われた。

冒頭で沼野先生が「最も人気のある作家」の一人に挙げた村上春樹については、もはや説明の必要はないだろう。日本国内のみならず世界中に数多くの愛読者をもち、現代日本文学において最も名を知られた大ベストセラー作家だ。

一方のドストエフスキーは、19世紀後半のロシア小説を代表する文豪。沼野先生が、村上春樹と並んで彼の名を挙げた理由はなぜか。

「それは、ドストエフスキーの作品が翻訳を通じて多くの日本人に読まれ、絶大な影響を与えているからです。文学作品において、一般的に翻訳は二次的なものであり、翻訳家は黒子であると考えられがちです。しかし、人間が文学的素養を身につけていく過程においては、日本文学であろうと翻訳文学であろうと、いいものはいいのです。影響力の大きさで言えば、ドストエフスキーほどの作家はいないかもしれません」

ドストエフスキーは、近年の「古典新訳ブーム」で再び注目を集めている。ロシア文学者である亀山郁夫氏が訳した光文社古典新訳文庫『カラマーゾフの兄弟』が2007年に出版されると、全5巻で累計100万部を超える大ヒットとなった。この「異常事態」は、本国ロシアでも大きな話題となったという。

古典新訳ブームの中では、村上春樹による新訳も話題を呼んだ。沼野先生は、村上訳の特徴の一つとして、原文のタイトルをそのままカタカナ表記に置き換える傾向を挙げた。例えば、2003年に新訳が出されたサリンジャーのThe Cather in the Rye。日本では『ライ麦畑でつかまえて』のタイトルでなじみ深いが、村上訳では『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と題されている。同様に、フィッツジェラルドのThe Great Gatsby(華麗なるギャツビー)も、2007年に出された村上訳では『グレート・ギャツビー』とカタカナ表記だ。

「本当は、タイトルも日本語に訳してほしいところです。ただ、日本語におけるカタカナ語の許容度が高まってきていることもあり、今の時代にはこれも許されるのでしょう。興味深いのは、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も『グレート・ギャツビー』も、冒頭のTheは省略されていること。日本語では、『ザ』があってもなくても関係がない。つまり、カタカナ表記とはいえ、これは日本人向けに翻訳されたある種の日本語タイトルであるといえます」

写真:沼野充義さん

翻訳とは「失われるもの」?

続けて沼野先生は、翻訳者が直面するさまざまな困難について考察を行った。

その一つが、実在するさまざまなもの(レアリア)をどう訳すかという問題だ。例えば、ロシアの伝統的なお菓子である「ブリヌイ」。ロシア風のクレープのようなものだが、日本で広く知られているわけではない。ブリヌイは『カラマーゾフの兄弟』にも登場し、訳者によって異なる語に訳されている。明治生まれのロシア文学者である米川正夫は、「薄餅」と訳した上で「ブリン」とルビを振った。小沼文彦訳では「パンケーキ」、原卓也訳では「ホットケーキ」、亀山郁夫訳では「クレープ」となっている。

現代では、原文に得体の知れないものが出てきても、グーグル画像検索などを使って目で見て確認することができる。「調べるすべがなかった時代の翻訳者は、本当に大変だったと思います」と沼野先生。それでも、原文の文化にあって、ターゲット言語の文化にはないものをいかに訳すかは、永遠のテーマであり続けるだろう。

もう一つの困難として、「翻訳によって失われてしまうものがある」という点が挙げられた。

「文学作品の場合、本来はその言語で書かれること自体に意味があるわけです。特に詩は、韻やリズムといった形式上の制約が大きいだけに難しい。意味を訳すことは比較的簡単ですが、音や形式まで訳すのは非常に困難です。小説の場合は、詩に比べると失われるものは少ないといえます。それでも原文で書かれたことに意味がある部分は、翻訳によってどうしても失われがちです」

実務翻訳では「正確さ」や「分かりやすさ」が重視されるが、文学作品では、分かりやすさよりも、文体や全体に漂う雰囲気の方が大切な場合がある。

意味と形式のバランスをいかにして図るかについては、昔から多くの翻訳者たちが頭を悩ませてきた。ロシア文学の翻訳も数多く手掛けた二葉亭四迷のエッセイによれば、彼は原文の「音調」を伝えるために、コンマやピリオドまで原文と同じようにそろえて訳すことを試みたという。ただし、エッセイの続きには、この手法が結果的に「うまくいかなかった」ことも記されており、苦労のあとがうかがえる。

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