現役通訳者のリレー・コラム

第一線で活躍する現役の通訳者の方に、この仕事を目指したきっかけや日々の通訳業で感じる思い、
仕事へのポリシーなど、リレー形式で書き綴っていただきます。

【第13回】通訳者こそ読まなければならない本があるんです

言葉というものがその話者の個人的背景を背負って出てくるように、言語もまた、その言語圏の文化的背景を背負って成り立っています。そういうわけで、たとえA言語圏におけるある言葉が、A言語圏の人たちにとって琴線に触れるようなものであるからといって、それを他の言語圏から来た人々に、A言語圏に属する人と同じような感動を味わってほしいと思って通訳をしようとしても、なかなかうまい表現が見つからないということはしばしばあります。そこを何とか伝えたいと思って日々悪戦苦闘をしているのが私たち通訳者や翻訳者なのではないでしょうか。

このような言語の文化的背景を踏まえた表現を模索するのは、翻訳をする場合には訳出するまでに時間があるために、様々な検討、研究を重ねてより良い表現にしていくことも出来るのですが、(もちろん時間があればの話ですが…)通訳者となると現場ではなかなかそういった時間が取れません。このとっさの判断で適切な訳出ができるようにするためには、普段からそのような表現をどう訳出すればいいか、と見聞を広めることで自らの語彙力向上に努めることぐらいしか対応策はないのではないかと思います。

私も、通訳者の端くれとして普段から様々な会議を通訳していますが、その経験の中でも一風変わった、教会での説教の通訳についての経験を踏まえて、今回のコラムを書き進めてみようと思います。

言葉そのものの用法について

英語圏では、スピーチや、ちょっと気の利いた小話、またはものの喩えにおいて、聖書に書かれている言葉や表現、概念などが数多く用いられています。これは日本で中国の故事からくる四字熟語や、儒教や老荘思想の流れをくむ格言、ことわざなどが話の中でつかわれていることとよく似ています。ただ、本当のところはこのような聖書にまつわる比喩や格言をはじめ、それをもじったり、皮肉ったりした風刺や暗喩は、キリスト教の信仰を持つ人口が1%未満と言われている日本人通訳者にとってなかなかハードルが高いものではないでしょうか。

豚に真珠

例えば、「猫に小判」という言葉を話者が使った際、それを英訳するときには何と言ったほうがよいのでしょうか。和英辞典などではよく、“Casting pearls before swine”(豚に真珠)などとされています。この表現が聖書からの引用であることは、通訳・翻訳に携わる方々は「そのぐらい常識でしょう」と言われるぐらいご存知かと思いますが、実はここに恐ろしい誤解が起こり得る可能性が秘められていることをご存じでしょうか。

この「豚に真珠」は、聖書に書かれているイエス・キリストの説教に出てくる表現ですが、これを全文引用すると以下のようになります。

「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(マタイの福音書7章6節)

「猫に小判」の猫の場合、小判を与えられたからといって与えた人の手に噛みつくことまではしないだろうと思いますが、この「豚に真珠」の豚の場合は「その真珠を踏みにじり、向き直ってあなた方を引き裂く」、つまり与えた大事なものを蔑ろにするばかりでなく、与えた人にも噛みついて危害を加えるぞ、とまで言われているわけです。

さらに、日本では、「猫」という動物は「猫かわいがり」という表現があるぐらい、愛玩動物として好かれている動物です。しかし、聖書の文化世界、ユダヤ人社会において「豚」という動物が同じような社会的地位を持っているかというと、実は全くそうではなく、日本人にとってのゴキブリよりたちが悪い、嫌悪の対象とでも言うべき肌感覚があるのです。なので、同じ動物といえども、映画のベイブのように「豚かわいがり」なんてことは「ゴキブリかわいがり」と同じくらいありえない話なのです。

この辺りの背景を考慮せずに、単に「価値の解らない動物に価値のあるものを与える」という表現が似ているからといって、話者が「もったいないこと」という意味で使った「猫に小判」を短絡的に「豚に真珠」と英語にするのは、少々気を付けた方がよいかもしれません。なぜなら、Judeo-Christian色の強い欧米文化圏、特にユダヤ人やアラブ諸国の聞き手の中の「豚」の持つイメージがあまりにも日本人にとっての「猫」のイメージとかけ離れているため、聞いている側にあらぬ誤解を与えかねない訳出となってしまう恐れがあるからです。そういうこともあり、そのような恐れがある場合には、あくまでも原文に忠実に、“Giving money to a cat”としてしまった方がよい場合もあります。

先ほどは、「英語圏では」と、聖書にある表現が欧米諸国だけで使われているかのように述べましたが、実は「豚に真珠」同様に日本にも多くの聖書からの引用が慣用句としてあります。しかし、結構な数の人たちが、それを聖書からの慣用句と知らずに使っている場合があるのです。

もう一つの事例を見てみましょう。「目から鱗」という表現はよくつかわれる表現ですが、ご存知の通り、これも聖書からの引用です。この表現は日本人の感覚としてはどことなく違和感があることから、外国から来た表現であることは大体想像がつきます。しかし、引用の際に何に着目されているかという点で、日本と欧米での視点が異なるきらいがあり、訳出が聖書からの直接的な引用になってしまう場合があります。

この場面は、使徒言行録9章18~19節に、「するとただちに、サウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。」と、イエス・キリストにつき従う信徒を迫害することに熱心だったパリサイ人というユダヤ教の熱心な信奉者が、改心するときの様子に出てくる情景で描かれています。

辞書などを見ていると、「目から鱗(が落ちる)」というのは “The scales fall from one's eyes” と直訳されていることがあります。訳出としてはあながち間違いではないのですが、このような表現ではどうも焦点が「鱗が落ちたこと」に当てられていて、聖書で描かれていることの本質でもあり、この話の真意でもある、「(見えなかったものが)見えるようになる」が転じ、「誤りを悟る」、「改心する」ということと表現が少々ずれてきてしまうということが起こります。

この時に使えるのが、“eye-opener”という表現で、驚きと新しい発見という意味のほかにも、目が開かれる、つまり「目が見えるようになる」という意味が同時に取れることから、より適切な訳出になっていると言えると思います。個人的には、「目から鱗でした」なんて言うのを“The scales fall from one's eyes”と長ったらしい表現にしたくないのが主な理由なのかもしれませんが(笑)。

聖書の話を知っていると、逆の場合にも実は重宝したりします。例えば、クライアントが「李下に冠を正さず」や「瓜田に履を納れず」などと、「古楽府」の君子行由来の金言を使ったとき、それを中国の格言や故事に必ずしも明るくないJudeo-Christian系の欧米文化圏から来た聴衆が聴いても、格言らしく聞こえるように訳すことが出来ます。

このような格言の訳出は、微妙なニュアンスまで自分の言葉で訳そうとすると、そのストーリーを知らない聴衆が理解できるようにしようとして、冗長な説明を加えざるを得なくなってしまうことが多いものです。しかし実はそういった類の格言は聖書に数多くあり、この場合には、「疑念を招くような行為は避けよと」いう戒めが本来の意味なので、欽定訳聖書のテサロニケ人への手紙第1の5章22節にある、“Abstain from all appearance of evil.” を訳に使うことですっきりと、しかも格調の高い訳出ができるのです。

知念徳宏さん
Profile/

会議通訳者・翻訳者。ロゴスエージェンシー合同会社社長、カフェ・ライトハウスのオーナー。ニュージャージー州立ラトガース大学、ニュージャージー州立医科歯科大学毒物学科卒業。抗がん遺伝子、麻薬、抗がん剤関連の研究に従事。学外では地域の救急隊の救急隊長も務める。帰国後、教会で米国人宣教師の説教の通訳をする一方、高校教諭として海外進学コースを立ち上げる。

その後、JICE及びJICAで研修監理員/通訳者として10年以上、様々な分野(保健医療、農林水産技術、観光開発、水資源管理、エネルギー、IT、障害者福祉、他)の通訳を務める。現任教育による通訳者・翻訳者の人材育成の必要性を痛感し、2009年に会社設立、科学医療技術系をはじめ、様々な分野の通訳・翻訳サービスを提供している。

バックナンバー